X.南京大虐殺 1937年12月13日、日本軍(中支方面軍)は、南京を占領した。中山城の城壁には、日の丸がひ るがえった。6つの王朝の古都である南京は火の海に沈み、人間の地獄となった。人間の仕業と思えない大虐殺がはじまった。南京の街角のいたるところに屍が横たわり、血は海のように流れた。
当時東京朝日新聞の従軍記者だった今井正剛は、1937年12月16日だったろう、その夜明け 方、長江(揚子江)にのぞむ下関の埠頭で、おそろしい光景をみた。それを、次のように回想している。 「埠頭一面は、まっ黒く折り重なった死体の山だ。そのあいだをうろうろとうごめく人影が、50人、100人ばかり、ずるずるとその死体をひきずっては、河の中へ投げこんでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。しかもパントマイムのような静寂。対岸がかすかに見えてきた。月夜の泥檸のように埠頭―面がにぶく光っている。血だ。 やがて、作業を終えた苦カたちが河岸に一列にならばされた。だだだっと機関銃の音。のけぞり、ひっくりかえり、踊るようにしてその集団は、河の中へ落ちていった。終わりだ。」(家永三郎編「日本の歴史」ほるぷ出版より) この虐殺は、捕虜となった中国軍の兵士たちにたいして、また、一般の市民たちの中から便衣隊員(ふだん着をきた兵隊)とみなされ逮捕された者にたいして、そして、戦場から避難した一般の市民たちにたいして、つぎつぎとなされた。
当時「ナンキン・アトロシティ」として世界中に知られたこの虐殺は、日本国民には知らされなかった。一般国民たちがこの事実を知らされたのは、敗戦後の「東京裁判」によってであり、そこでは、耳をふさぎ、目をそむけたくなるような、しかしそうしてはならない大虐殺の証言・証拠が提出された。
しかし、このことだけで大虐殺を説明するのはむずかしい。日本軍が持っていた中国とその人民に対する差別意識も無視することはできない。 中国についてもっとも明るいアメリカの新聞記者エドガー・スノーは、「アジアの戦争」のなかで、当時南京大虐殺をこんなふうにえがいている。
南京大虐殺について、1948年11月11日に下された極東国際軍事裁判の判決では、こう結論 している。 「後日の見つもりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見つもりが誇張でないことは、埋葬軍とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5000におよんだ事実によって、証明されている。これらの団体は、また、死体の大多数がうしろ手にしばられていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼きすてられたり、揚子江に投げこまれたり、またはそのほかの方法で処分されたりした人々を計算にいれていないのである。」
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